その場所には何もなかった。

人がいる気配はなく、動物の姿さえ見えない。建物も何もない。

辺りに広がるのは、地面を覆う砂だけ。

ほんの数時間前まで、この土地はそんな姿をしていなかった。
中央には立派な城が建ち、その回りには人が住む町があった。

どこにでもあるような光景が広がっていたはずの場所からは、
一切の姿と音が消え、その姿は全く別のものに変わっている。

その場所に、今、一人の少年が立っていた。腰のあたりまで伸ばした
淡い茶色の髪が吹き抜ける風に揺れていた。長衣の上に羽織った
マントも同じ様に風に揺れている。涼しげな美貌、男にしておくのが
もったいない程の美しい少年だった。

少年は暫くその何もない場所をただ眺めていた。その表情はどこか
険しい。何もない場所を見つめる視線の先。そこに何を見ている
のかは、彼自身しか知る事は出来ない。

その瞳に映るのは絶望か？

それとも、もっと別の何かなのか？

やがて少年は、何か意を決したかのように、右手を自分の腰へと滑らせた。
長い衣に隠れて見えなかったが、その腰には短刀を帯びていた。　　
　腰にあった短刀は今、その手に握られている。　　　　　　　　　　　　　
少年はその短刀を鞘から抜くと、自分の髪にその刃を当てた。
切り落とされた美しい髪が、次々と風に舞っていく。それはまるで何かの
儀式のようであった。髪を切り落とした後、少年は短刀をまた元のように
鞘に収めた。そして、何かを決心した様にその場を後にした。

　　　　　　　　Enigme 　１

華美と言う程派手な装飾が施されているわけではないが、その部屋に置かれた
調度はどれもみな見事な品ばかりである。それはこの部屋の住人が、それだけの
品を集められる立場にあると言う事を示している。

「お呼びと伺いましたが、ご用件は？」　　　　　　　　　　　　　　　　
青年は部屋に入ると、早々にそう切り出した。　　　　　　　　　　　　　
黒い髪の背の高い青年である。眼鏡を掛けた生真面目そうなその顔は、
この部屋の主である目の前にいる老人とどこか似ていた。それは、二人の間に
血縁関係があると言う事を思わせるもの。　　　　　　　　　　　　　　
青年の目の前で椅子に腰をかけている老人は、青年を呼び出した理由を
話す為口を開いた。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　「北の王国アドレッセントの事は聞いておるか？」　　　　　　　　　　
　老人に尋ねられて、青年はその言葉に軽く頷いた。　　　　　　　　　　　
「多少の噂は耳にしております」　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　「それならば皆まで言わずともわかるな？」　　　　　　　　　　　　　　
老人は青年の返事に満足そうに頷くとそう念を押す。　　　　　　　　　
　「真相を探れと言う事ですか？」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
予想のついた事柄だったが、一応、確認の為に青年は言葉にした。　　　
　「そうだ」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　「わかりました...」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
青年はそう返事をすると、早々に部屋を後にした。そして、自分に与え
られている部屋へと向かう。

旅立つ準備はほとんど出来ていた。老人の呼び出しを受ける前から、何となく
こうなる様な予感がしていたから、前もって準備をしていたのである。

この大陸の北に位置する国アドレッセント。

その国についての様々な噂が、数日前から青年の耳のも入る様になっていた。
青年のいる国は、今から赴こうとしているアドレッセント王国とは、大陸の中で
正反対に位置する南東にある。目的地に辿り着くまでに、かなりの日数を
要する事は、覚悟しなければならない。　　　　　　　　　　　
青年は身に付けていた上等な衣装を脱ぎ、王宮で雇われている傭兵達がして
いるような格好に着替える。そして剣を背に担ぎ、荷物を手にして部屋の外へ出た。

「テヅカ.........」

部屋を出たところで、青年を呼び止める声があった。　　　　　　　　　
　「オオイシ.....」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
その姿を認めた青年が、その声の主の方を振り返った。声の主は、長衣を身に
付けている。その長衣の胸の辺りには、その国の神殿の司祭である事を示す
紋章があった。オオイシと呼ばれた青年は、テヅカの幼馴染みでもある。
故にテヅカの格好を見ただけで、だいたいの事情は察したらしく、その身を
案じる様な表情をした。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
「その格好、陛下の用件は、やはり......」　　　　　　　　　　　　　　　　
「あぁ、予想通りだった。俺はこれからアドレッセント王国へと向かう」
「そうか......」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
その返事を聞いて、オオイシと呼ばれた青年の顔が少し青ざめた。アドレッセント
王国の不吉な噂は、彼も聞き及んでいる。　　　　　　　　　　
「いつ帰ってこられるかわからない旅にはなるが、俺は必ず帰ってくる」
心配そうな視線を自分に向けてくるオオイシにテヅカはそう宣言した。　
　本気でそう思っているのだろう。テヅカの表情には迷いと言うものがない
。寧ろ怖いもの知らずで不遜とさえ言えるかもしれない態度である。　　
そしてテヅカは、後ろを振り返る事なくその場を立ち去った。

「...行っちゃったね」

テヅカの姿が見えなくなった後、オオイシの背後から突然声が聞こえてきた。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　「エイジ、いつから見ていたんだ？」　　　　　　　　　　　　　　　　　
柱の陰から顔を覗かせている少年に、オオイシは尋ねた。
するとエイジと呼ばれた少年は、柱の陰からオオイシの側へと近寄った。
このエイジと呼ばれた少年も、テヅカとオオイシにとって幼馴染みの一人である。　　　　
「最初からかにゃ？オオイシがテヅカの部屋の前を行ったり来たりしている
ところから」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
「......そんなところから」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
本当に最初から見られていたのだと言う事を知って、オオイシはがっくりと肩を
落とした。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
「うん。オオイシの心配もわかるけどさ。テヅカならきっと大丈夫だよ。
今までだって、そうだったし」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
オオイシが肩を落としている理由が、テヅカの事を心配してのものだけであると
思っているエイジが慰める様にそう言った。それを聞いたオオイシは、
フッと笑ってエイジの方を見た。　　　　　　　　　　　　　　　　　
「エイジは強いな？」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　「オオイシ？」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
言われた言葉の意味がわからずに、エイジは首を傾げている。その無邪気さが、
彼の育ちの良さを表しているかのようだ。両親に愛されて大切に育てられたの
だろう。そんな素直さの現れ。　　　　　　　　　　　　　　
　エイジの様に、無邪気にテヅカの無事を信じられたらとオオイシも思わないでも
ない。けれど、心配性の彼にはそんな風に楽観的に考える事は出来なかった。
物事に絶対はないと言う事を知っているから。　　　　　　　　
「そんな風に思う事が出来る、エイジが羨ましいよ」　　　　　　　　　　
ついついそんな風にぼやいてしまうオオイシに、エイジは首を傾げるばかりである。
「オオイシ、そんなに悩んでばかりいると早く老けるよ？」　　　　　　
　う～んと悩んだ後、
エイジは悪気なくオオイシにとどめの様な言葉を投げた。オオイシはその言葉に目を
瞬かせるが、気分を害した様ではなさそうである。　　　　　　　　　　　　　

一緒に旅に出る事が出来ない以上、司祭の見習いであるオオイシに出来る事は、
テヅカの旅の無事を祈る事ぐらいでぐらいである。

「それじゃあ、俺も一緒に神殿へ行こうかにゃ...」　　　　　　　　　　　
「エイジ？」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　「二人で祈った方が、ご利益があるかもしれにゃいし？」

エイジはそう言って、にっこりと笑った。そして二人は、テヅカの旅の安全を
祈るため、神殿へと向かう事にした。

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