病室のドアが静かに開けられた。 
                 
 「周助...」 
                          
 「兄貴...」 
                           
 連絡を受けた家族。姉の由美子と弟の裕太が病室に姿を現したのは、夕方になってからの事だった。
                     
 「あの...」 
                           
 二人に呼びかけられて、不二は戸惑った顔をした。
          
 「兄貴、本当に俺の事も忘れちゃったのかよ?ふざけて言っているんじゃないんだな?」                           
裕太はそういいながら、拳を握りしめた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

                             
「うん。ゴメンね...」 
                      
 その様子に、不二は戸惑いながらも謝った。自分を兄と呼ぶからには、彼は弟なのだろう。
そして、髪の長い女性が姉で、中年の不二が母親なのだろうと察する。
                           
短い面会の後、家屋は医師に別室へと呼ばれた。
           
 「先生、あの...。周助は...」 
                    
 「怪我の方はたいしたことはありません。脳波の測定や、レントゲンの方にも異常はみられません」                      心配そうな家族に、医師はそう答えた。脳自体に問題はないのだと言われて、家族はほっとした表情をした。                  「何故、記憶を失ってしまったんでしょうか?」           
 「それは、わかりません。転んだ時に、木の幹か何かに頭をぶつけたようなので、
その時のショックがきっかけだろうと思われます。記憶を失ったのは、何か心的要因がある
のではないかと...」            
 「心的要因...。ですか...」 
                     
 「そうです。何か心当たりはありませんか?近頃何かに悩んでいるようだったとか...」                           
医師に言われても、家族は何も思い当たる事はなかった。
       
 「弟はどちらかというといつもにこにこ笑ってました。とても何かを悩んでいるようには
見えなかったんですが...」               
姉の言葉に裕太も頷いた。それを聞いた医師は、少し考えるように首を傾げた。
                              
 「そうですか...。では、本人も意識していない部分で、何か悩んでいる事が
あったのかもしれませんね」 
                  
 「そんな...。それでは、いったいいつ治るんですか?」
        
 「いつとは、はっきりと申し上げる事はできません。明日にも記憶が戻っているかもしれないし、
1年もしくはもっと時間がかかるかもしれません」 
                              
 医師の言葉に、家族の間で不安が走った。 
              
「私たちはどうしたら...?」 
                   
 「今まで通り、普通に接して下さい。自分の名や皆さんの事は覚えていなくても、
日常的な事は覚えています。ふつうに生活する面での支障は何もないはずです」
                           
そう言われて家族は頷いた。その後、家族と医師の間での相談はしばらく続いた。


病院でも面談が終わった後、不二の家族もその日は別荘で一泊する事になった。
この時間から帰るのは大変だろうと言う事で、そうする事になったのだ。
                              
 「すいませんでした。こんな事になってしまって...」
          
手塚が不二の家族に頭を下げた。病院ではバタバタしていて、謝る事も出来なかったのだ。
手塚にならって、大石と菊丸も頭を下げる。     
 「あなたたちの所為じゃないから、気にしないで...。かえってこちらの方が申し訳ないと思っているわ、
こんな事になってしまって...」      
せっかくの楽しい旅行が台無しになってしまったのだ。家族を代表して由美子がそう言った。 
                       
 不二は、今日一日入院して、明日の昼には退院する事になった。外傷がたいした事がない為と、
思ったよりも本人の意識がしっかりしているようなので、そう言う事に決まったのだ。
                 
 「俺たちは、どうしたらいいんでしょうか?」 
            
「先生とも相談したんだけれど、このまま予定通り明日からもここに滞在してもらえないかしら?」
                     
 「それでいいんですか?」
                     
 「えぇ、勿論周助も一緒に。先生にも変に気を使うよりも、普通に接するようにと言われているの。
このまま連れて帰ろうかとも思ったんだけど、お友達と一緒に楽しく過ごした方がいいかもしれないと思って」
     
由美子にお願いできるかしらと言われて、3人は頷いた。

翌日、病院へ由美子の運転する車で不二を迎えに行った。
そして、4人を別荘で降ろすと、代わりに淑子と裕太がその車に乗り込んだ。     
 「それじゃあ、私たちは帰ります。周助、皆に迷惑をかけないようにね」 
本当は、このまま残していくのは心配である。由美子がそう言うと不二はにっこりと笑った。
                        
 「心配性だなぁ、姉さんは」 
                    
そう言って苦笑する姿は、記憶をなくす前となんら変わらぬものだった。心配する家族をよそに
、本人の方がのんびりと状況を構えているように見えた。


あぁ、これは夢なんだと、朧げな意識の中で不二はそう確信していた。  
誰かの手が、頬に触れる。                      
 それが合図だったかのように目を閉じると、唇に触れる暖かい感触。 
  自分は、この人が好きなんだ。そう自覚する。            
 離れていく唇。そして、囁かれる言葉。               
 『好きだ...』                           
 低い声で、そう言われるのが心地よかった。

ふと目が覚めて、やっぱり夢だったんだと不二は思った。
       
 そっと指先で唇に触れる。ただの夢と言うには、やけにリアルだったなと思いながら独り言を呟いていた。                   「...恋人がいたのかな?」 
                    
 自問自答してみても答えはでない。自分の事なのにわからないと言うのがもどかしいと、記憶をなくして初めてそう思った。           
 「でも、聞けないよね...」 
                     
誰かに聞けば教えてもらえるかもと思ったけれど、すぐにその考えを打ち消す。
夢に出てきた相手は男だった。もしも自分の男の恋人がいたのだとしたら、
それは友達にも隠していたかもしれない。公に出来る事ではないと言う事は、記憶がなくてもわかる事だ。 
             
 「考えてもしかたないか...」
                    
 そう気持ちを切り替えて、伸びをしてからベッドを抜けした。そして、窓辺に近付きカーテンを開ける。
窓から入ってくる眩しい陽光に目を細めつつも、皆もう起きているかもしれないと慌てて着替えを済ませる。
そして、部屋を出ようとドアを開けた。 
                 
「おはよう...」 
                         
 ドアを開けた所で、手塚と鉢合わせをした。不二が挨拶をすると、向こうからも短い挨拶が返ってきた。
そして、そのままその場を立ち去ろうとする手塚の背後から、不二は声をかけた。 
               
「今日は君が朝食を作る当番なの?僕も手伝うよ」 
                
キッチンに向かった手塚に不二がそう質問をする。昨日のうちに別荘の中の案内はしてもらっている。
手塚が向かっているのがキッチンだとわかったので、それならと思ったのだ。 
                  
「...手伝いはいらない。お前はリビングにでも行って、皆と支度が出来るのを待っていろ」 
                         
手伝いを申し出た不二に、手塚はそっけなくそう言った。そして、さっさとキッチンの方へと行ってしまう
。その手塚の態度に必要以上の素っ気なさを感じて、不二はその背中を見送った。自分は彼に
嫌われているのだろうか...。不二の中にそんな疑問が広がっていった。

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