1.残夢

照明灯の光の中で、ぼんやりと浮かび上がる夜のテニスコート。    
うっすらとかかる霧が、コートの向こうに立つジン物の姿を隠している。
その人物が自分のいる方へと近付いてくる。              
ゆっくりとネットの方に向かって歩いてくるその姿を見ながら、
その人物が自分の日って射る人である事を確信する。             
いつもは風に揺れてさらさらと靡いている淡い色の髪が、霧のせいで水分を
含んで少し重たそうに見える。

『不二......』

名前を呼ぶと、彼はラケットを持っていない方の手を差し出した。   
 試合の後に躱す握手を求める時の様に。               
 そしてにっこりと笑った。                     
 それを見て確信する、これは夢だと。現実の彼が、そんな笑顔を自分に見せた事等
一度もないのだから。いつも見せているどこか一線を引いた様な笑みではない。
本当に心からの笑顔。
いつか現実になるだろうかと思っていると、それを振払うかのような無情な音が鳴り響いた。

目覚ましを止めて体を起こすと、そこは見なれた自分の部屋。      
やっぱり夢だったかと思いながら手塚は身支度を整える。       
 夢と言うものは目が覚めた時には忘れてしまっている場合と、はっきりとどんな
夢だったかを覚えている場合がある。今回は後者だった。     
それも夢を見ている時から、これは夢だと言う確信の様なものがあった。
何故あんな夢を見たのか。それは昨日の練習試合の所為だろうと手塚は思う。
昨日の不二との初めての練習試合。                
試合が終わった後、不二と交わした握手。その時に不二は言った。

『君は、やっぱり強いね』

そう言ってにっこりと笑う不二の笑顔は、いつも皆が見なれたもの。
愛想がないと言われる手塚と違って、不二はいつもでにこにこと微笑んでいる事が多い。                             手塚が違和感を覚えたのはその時かもしれない。確かに自分は不二に勝った。
それなのに勝ったと言う気がしない。

『手塚...?』

握手を交わしながら、思考を飛ばしてしまっていたらしい。
無表情な手塚の微かな感情の表れを読み取ったのだろう。              
不二に呼ばれて、手塚は、はっと我に返った。

『すまない...』

そう言って手塚が握っていた手を離すと、不二は手塚に背を向けて歩き出した。
さらさらと淡い色の髪が風に揺れる。その後ろ姿を見送りながら、
手塚は不二に対する違和感を拭えずにいた。

       ◆      ◆      ◆

放課後、テニス部の練習へ向かう時間になっても、手塚は夢の残像を振払えずにいた
。廊下を歩いてテニスコートへ向かう間も、心がどこかを彷徨ってしまっている。
ただ感情が表に出ない手塚の事。誰もそんな事には気付かなかった。

「手塚」                              
そこへ友人の大石が声をかけてくる。                 
「大石......」                           
 「今から部活に行くところだろ?一緒に行こう」            
「あぁ.........」                           
 「どうした?何かあったのか?」                   
大石は手塚の様子がいつもと違う事に気が付いて声をかけた。
手塚は過去にその実力を妬まれて、上級生から色々と難くせをつけられた事があった。
また何かあったのではと大石は心配したのだ。           
手塚はそんな嫌がらせに屈するタイプではないが、だからこそ心配だとも言える。
真面目すぎて融通が利かないために、かえって更なう反感を買う事があるのだ。
何もなければそれに越した事はないのだが。

「気になる事があってな」                      
「気になる事?」                          
「大石は昨日の練習試合を見てどう思った?」             
手塚が歩みを止めてそう聞いた。大石も止まって手塚の方を見る。   
 「昨日の練習試合って、手塚と不二の試合の事か?」         
 「そうだ」                             
「どうって、別に...。不二も結構上手いんだなとは思ったけど」     
「それだけか?」                         
 「それだけかって、他に何かあるのか?」               
手塚の言いたい事がわからなくて、大石は問い返した。

「いや......」                            
自分が感じた何かを、大石に上手く説明する自信は手塚にもない。    
「...何か気になる事があるなら、不二に直接聞いてみたらどうだ?」  
 大石がもっともな事を言う。                     
「...俺は不二に嫌われているからな」                 
「?なんだよ、それ...」                       
大石から見た不二は人当たりがよく、誰とでも普通に話していると言うイメージがある。
勿論手塚とも。だから手塚がそんな事を言うのが意外だった。

「怒らせるような事を言ったのは、俺だからそれも仕方ないが」

「怒らせる様な事?いったい何を言ったんだ、手塚?」

手塚は黙り込んだ。

あれは入部したての頃の事だった。着替えるために部室に入ろうとしていた手塚は、
後から来たその頃は名前も知らなかった不二に向かって失言をした。

『女子の部室は向こうだぞ』

それを聞いた不二は最初何を言われたのかと呆然としていたが、すぐににっこりと
笑ってこう言った。

『君って随分失礼な人だね』

言われて手塚は、自分の失敗に気が付いた。不二の柔らかな印象と、綺麗な顔立ちを
見てとっさに女の子だと判断してしまったのだ。これが制服姿だったら、流石に間違え
なかっただろうが。

『すまない...』

顔は笑っているが、内心は怒っているのだろうと手塚は自分の失言を詫びた。

『いいよ、もう......』

そう言うと不二は、さっさと部室に入っていった。それ以来不二とはまともに口をきいた
事はない。嫌われているのだろうと手塚は思っている。誰に対しても見せる笑顔で、
手塚とも接してくれるが、どこか一線を引かれている気がするのだ。

「すまない、大石。理由は言えない...」

「そうか...」

友達でも、触れられたくない事はある。大石はそれ以上、理由を聞こうとはしなかった。
大石がさり気なく話題を変えて手塚を気遣う。それに甘える形で手塚も耳を傾ける。

「手塚に報告したい事があるんだ」

「報告?」

「俺、英二とダブルスを組む事にしたんだ」

「...菊丸と?」

いつから名前で呼ぶ程したしくなったのだろうと、手塚が不思議に思っていると、
大石がその理由を説明した。

菊丸との試合の後、一人で練習していたところ、偶然、菊丸に会った事。どう言う
心境の変化かはわからないが、菊丸が自分とダブルスを組むと言った事等を。

新たな目標に向かって進もうとする友の話を、手塚はただ黙って聞いていた。

        ◆      ◆      ◆

放課後のテニスコート。

青空を白い雲がゆっくりと流れていく。いつもと同じ光景。      
 ランニング等の基礎練習を終えた後、レギュラーと別れてのコートに入っての練習。

「暑いな、今日も...」                        
人通りの練習を終えると、タオルで顔を伝う汗を拭い取りながら大石が言った。 
「そうだな...。顔を洗ってくる」                   
そう言って手塚は、グラウンドの外に有る手洗い場へ足を向けた。
今日はいつにもまして、暑い様な気がする。せめて顔を洗ってさっぱりしてから着替えたかった。

顔を洗うために手洗い場へと着いた手塚は、思わず足を止めた。

「不二.........」

手洗い場で顔を洗っている不二の姿に、こんな所で会うとは思っていなかった手塚は少し動揺した。

「手塚、君も顔を洗いに来たの?今日は暑かったしね」

タオルで水気を拭いながら、不二が手塚に話しかけた。        
 「............」                             
「手塚?」                            
 何も答えない手塚を訝しんで、不二が名を呼ぶ。            
「この後、予定はあるか?」                  
   
「えっ.........?」                          

 何もないなら、一緒に行って欲しい所がある。着替えたら裏門で待っていてくれ。
俺も着替えたらすぐに行く」                 「..................」

理由のわからない手塚の突然の誘い。不二はそれにはっきりとは答えなかった。
そして手塚も返事を聞かずに水道の蛇口を捻る。

顔を洗い始めた手塚をその場に残し、不二は何も言わずにその場を立ち去っていった。

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